星槎との出逢いは繋がっていた
前回に引き続き、星槎国際高校静岡で教鞭をとられる、三浦美華子先生による、「星槎との出逢い」パート2です。ぜひご覧ください。
星槎との出逢いは繋がっていた
星槎国際高校静岡 教諭 三浦美華子
ちゃんとした学校なのか?
2012年1月、横浜そごうでの合同説明会には多くの通信制大学が集まっていた。私は事前に資料を取り寄せてあった数校の大学の話を聴き、帰るころには「星槎大学」に決めていた。そして、静岡に戻り、実家に寄り母に話をすることにした。
しかし、静岡に住んでいる私たちは、星槎大学は勿論、星槎という学校のことを全く知らず、「本当に教員免許が取れるのか?」「ちゃんとした学校なのか?」と急に不安な気持ちにさえなった。パンフレットをよく見ていくと、法人の中に「奥寺スポーツアカデミー」の文字を見つけ、母と二人で「あの、サッカーの奥寺さん?」と顔を見合わせた途端、母が、「知良に電話してみよう」と言い、その場で電話をかけた。
はじめまして、ではなかった星槎
そこで私たちは、初めて「星槎」が兄の所属する横浜FCのスポンサーだったことを知ったのだ。いささか単純ではあるが、「Jリーグのスポンサーになるくらいなら大丈夫だね」ということになり、星槎大学への入学手続きを進めていった。
私の状況に一番合っていると感じて決めた「星槎大学」との出逢いは、「はじめまして」であり、「はじめまして」ではなく繋がっていたのだ。
41歳で星槎大学に編入した私は、年齢的なことを考えると長く時間をかけることはできないと思い、自分で決めた学修スケジュールで着実に、いやそれ以上に進めていった。そんな私の姿を見て、母の友人や知人に「やっぱり血だね」「とことん突き詰めるところはお兄ちゃんと一緒だね」などと、よく言われた。
カズさんもヤッさんもブラジルに
3人兄弟の末っ子で、女の子ということもあり、小さい頃からとても可愛がってくれた兄たちだったが、私が小学校6年生の12月に、カズさんは15歳でブラジルに行ってしまった。そして、私が中学校1年の終わりにはヤッさんもブラジルに行ってしまった。
その後、2人の兄はプロサッカー選手になり、プロリーグや日本代表選手としてプレイしてきた。上の兄はヴィッセル神戸を現役最後に引退し、下の兄は現在も現役を貫いている。
私が子どもの頃は、静岡でさえも女子サッカークラブなどはほとんどなく、学校でお遊び程度にやるくらいだった。
その点でいうと、妹の私はサッカーやスポーツで兄と比べられることがなかったので気が楽だった。
「自分の路を進みなさい」
しかし、おかしなもので、兄たちが大成していくと、喜びの半面、彼らと比較してしまう自分もいた。
「私には何もない、駄目だ」とさえ思う自分もいた。
だから、母が必死で働いて私たち3人の子どもを育ててくれた「もんじゃや」を継げたことは、私にとって大きな意味があることだった。
その、「もんじゃや」も、「もう1回、大学で勉強して教員免許を取る」と言って、やめることになり申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
しかし、母は最終営業日に来て、私に「今まで本当にありがとう。よくやってくれた。もういいから、自分の路を歩みなさい」と言い、私の肩の荷を下ろしてくれた。
そして、私は星槎との出逢いによって自分が想像していた以上に、自分が決めた路を真っすぐ歩むことができている。
二人の恩人の言葉を胸に
2022年3月20日に叔父が亡くなった。兄たちにとっては叔父でもあり、小中学校時代のサッカーの監督でもある。
亡くなる1ヵ月くらい前に、主治医のご配慮から叔父に会うことができた。
その時、叔父は私に、「回り道したかもしれないが、だからこそ分かることがあり、できることがある。教育者として自信をもってやれ」と声をかけてくれた。それが、最期の言葉だった。
3月23日、叔父の葬儀を始める直前に入ったメールは、宮澤保夫会長の訃報だった。iPhoneを持つ手が震えた。
お会いして間もない頃、会長は、「学ぶのに年は関係ない。それが、三浦さんのタイミング。頑張って」と笑顔で言ってくださった。
私が星槎大学に入った年、そして大学院に入った年は、星槎グループ本部のある大磯キャンパスがスクーリング会場として使われていたこともあり、私は会長とお会いする機会があって何回かお話することができた。
これも、タイミングである。
叔父そして宮澤会長。分野が違っても、信念もって子どもの育成に携わってきた2人の恩人からいただいた言葉を胸に、今後も努力していきたい。
2022年5月7日